顕現後第3主日「弟子を選ぶ」マタイ4:12-23(2020年1月26日)

 先週の金曜日夕方、数日前から咳が出て止まらないので、豊平内科に行ってみましたところ、インフルエンザA型のマークが出ました。急遽本日は、「みことばの礼拝」をお願いすることになりました。主の守りの内に回復に向かっていますのでご安心下さい。

 

    さて、今日の旧約聖書ではアモス書が読まれました。ソロモン王の死後、イスラエル王国は紀元前926年に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。その後、北イスラエルは一時的にダビデ王の時代にまで回復しますが、国が繁栄し生活が豊かになるにつれ貧富の差が拡大します。この状況に対して神は神が選ばれた人々へ、その責任を求められるのです。それは現代の私たちへの問いかけでもあるのです。

 

    福音書では主イエスの宣教開始の様子が読まれました。主イエスの宣教開始のきっかけは洗礼者ヨハネの逮捕でした。主イエスはヨハネの逮捕を聞き、いよいよ自分が宣教を始めるときが来たと、荒れ野から去られます。そしてガリラヤに向かわれます。ガリラヤ地方は、洗礼者ヨハネを殺したヘロデ大王の息子のヘロ・デアンティパスの治める土地だったのです。

 

    宣教の開始は預言者イザヤを通して言われたことが実現するためでもありました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(イザヤ8・23b~9・1)
 ゼブルンとナフタリ地方は旧約聖書の時代、ユダヤ人が定住した場所でした。新約聖書の時代になると多くの異邦人、すなわちユダヤ人以外の人々が住むようになった場所です。新約聖書の時代にはガリラヤと呼ばれるようになりました。旧約聖書の時代にはアッシリア帝国に脅かされ、ガリラヤ地方の人々は暗い気持ちの中で生活していました。しかし、希望を与える「大いなる光」が神によって与えられると、預言者イザヤは預言し民衆を励ましたのでした。
 この預言は、ユダ王国滅亡(紀元前587年)で挫折しますが、主イエス・キリストの誕生で、イザヤが預言した救いが実現したのでした。

 

    しかし驚きましたね。この聖書の箇所が今年度の鹿児島復活教会の年間聖句に選ばれたのです。

 

    そのガリラヤで主イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教の第一声を上げられたのでした。
 この聖書の箇所をカトリックの本田哲郎神父は
「低みに立って見なおせ。天の国はすぐそこに来ている。」
と翻訳されています。

 

    「悔い改め」に付いては何度かお話ししたことがありますが、「メタノイア( metanoia )」というギリシャ語を翻訳したものです。「立場を変えて見る」という意味があります。立場を変えることによって、ずいぶん見方が変わります。
 高校の教員をしていたときのことを思い出します。
 例えば元気の良い生徒がいますと、明るい生徒として見てしまいます。しかし、見方を変えると、騒がしい落ち着きのない生徒と言うことになります。
 一方で物静かな生徒がいますと、暗い生徒だと思いがちです。しかし見方を変えると、落ち着いた思慮深い生徒だと言うことになります。
 どの立場から見るかによって、ずいぶん評価が変わるのです。
 一時期、子ども達の間で「ネアカ」、「ネクラ」と言う言葉が流行し、「ネクラ」と呼ばれている子どもたちが悩んでいましたが、この見方の違いを説明しながら励ましたものです。

 

    メタノイアの翻訳として本田神父の翻訳「低みに立って見なおせ。」はぴったりとします。
 「低みに立って見なおす」ことによって見方は変わります。社会的に弱い立場に置かれている人たちの見方が変わって来るのです。そして「低みに立って見なおす」ことにより、「あなたの隣人を愛しなさい」につながっていくのです。私たちが「隣人を愛すること」が完全に出来る様になった時に、神の国が実現するのです。

 

    主イエスはその後、ガリラヤ湖畔に行かれて最初の弟子を選ばれます。最初の弟子は漁師のシモン・ペトロとその兄弟のアンデレでした。
 当時の漁師は社会的には低い職業でした。学問を学ぶ時間もなかったのです。主イエスはこれらの人々に最初に声を掛けられたのでした。ファリサイ派の律法に詳しい、優秀な若者を弟子にしたら、どんなに楽をされたか知れません
 しかし、すごく簡単なやりとりでペトロとアンデレは主イエスの弟子になるのです。「人間をとる漁師にしてあげよう」という言葉で、ついていくことになるのです。もちろん、それまで主イエスについての噂は、聞こえてきていたでしょう。しかし、仕事や家族をほったらかしにして、彼らはついて行くのです。
 主イエスは弟子にするときに「ご覧になって」、「見て」決めておれます。「見る」のギリシャ語はoraw (オラウ)が使われていますが、これには「見る、理解する、認める、知る」と言う意味もあります。ただ見られたのではなくて、その働きぶりや態度や言葉遣いなどもよく観察して、彼等のことを理解し、認めて声を掛けられたのではないでしょうか?
 声を掛けられたペトロは実直で行動的な性格でした。見方を変えれば、考えよりも行動が先に立つ性格です。そのために、ペトロはよく失敗もします。最大の失敗は、主イエスの最後の場面で「私は主イエスに最後までついて行く」と言いながら、3回も「主イエスなんて知らない」と言って、十字架の主イエス・キリストを見捨てて逃げ出したことでした。
 そのペトロも主イエスに会って、噂だけでなく本物の主イエスを見て、仕事を捨てて付き従うことになったのです。 
 主イエスの選びは間違っていませんでした。主イエスの復活に出会ったペトロは、その後、命をかけて主イエスの福音を伝える弟子に成長したのでした。

 

    私たちも洗礼を受けるときに、主イエスは私たちをじっと「ご覧に」なったのです。そして「私の所に来なさい」と声を掛けて下さったのです。
 私たちの全てをご覧になって、声を掛けて下さったのです。
間違いを犯すこともご存じです。弱さもご存じです。欠点も全てご存じです。全てを知った上で受け入れて下さったのです。私たちが弟子として成長するのを見守っておられるのです。
 私たちはただ主イエスを信頼し、全てをゆだねて従っていけば良いのです。
  主イエス様はありがたいですね。

ドウッチヨ〈聖ペトロと聖アンデレの召命〉