顕現後第1主日「霊による洗礼」マタイ3:13-17(2020年1月12日)

    さて、喜びにあふれたクリスマスも終わり、主イエスの命名日(1月1日)、三人の占星術師が主イエスを訪問したことを記念する顕現日(1月6日)と主イエスの成長を記念する祝日も終わりました。本日は一挙に主イエスの誕生から30年ほどたった話になります。

 

    今日はその前に教会の暦についてお話しします。
教会の暦は固定祝日と移動祝日の組み合わせで作られています。固定祝日でもっとも大切なのは降誕日です。降誕日は12月25日で毎年変わりません。固定されています。
 それに対して復活日は「復活日は3月21日(暦上の春分の日)当日あるいはそれ以降の最初の暦上の満月(新月から数えて14日目)を過ぎたあとの最初の日曜日とする」
 となっており、毎年移動します。2020年の復活日は4月12日、21年は4月4日、22年は4月17日です。
 1月6日の顕現日は固定祝日ですので、顕現日から復活日までの期間(顕現説)は毎年変化することになります。
 また、復活日から降誕日までの期間(聖霊降臨後の節)も毎年変化します。したがって教会の暦はこの「顕現節」と「聖霊降臨後の節」の期間を調節することによって作られています。
 大斎節は復活日の40日前(日曜日は含まれません)から始まります。逆算すると、今年は2月26日が大斎始日(灰の水曜日)になります。その前の主日2月23日は大斎前主日となりますので、顕現後の主日は2月16日までとなります。

 

216()

223()

226()

410()

412()

顕現後第6主日

大斎節前主日

大斎始日

聖金曜日

復活日

 

 

復活日の40日前

(日曜は除きます)

 

 

    今年の顕現後の主日は第6主日までになります。この顕現後の主日の回数によって復活日までの期間を調節しているのです。
 教会暦は1年間でイエス・キリストの生涯をたどりますので、聖書の中の出来事が交錯して現れることになります。
 顕現節の福音書ではイエス・キリストの宣教の前半部分をたどっていくことになります。

 

    先ほどお読みしました「マタイによる福音書」では、主イエスが宣教活動を始められる前に、ヨハネから水による洗礼を受けられたことが語られました。
 ヨハネは先導者として、人々の罪の悔い改め(metanoia)のために水で洗礼(baptisuma)を授けていました。
 そこへ主イエスが現われます。ヨハネはすぐに気がつきます。ヨハネはあわてて
 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言いながら、ヨハネから主イエスが洗礼を受けられようとするのを思い止まらせようとします。
 ところが主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」といって洗礼を受けられるのです。
 当時の律法では水によって身を清めることが定められていました。つまり、主イエスはヨハネが行っていることは律法的にも正しいこととして、自分も人として受ける必要があるといわれたのでした。
 この事は、主イエスが神の子としてだけでなく、人の子としてもこの世に生を受けられたことの証でもあるのです。またこのことによって、主イエスはこれから従う者の模範を示されたのでした。
 ヨハネの洗礼の方法は、当時、清めのために行われていた、眼を水面のすれすれまで顔を沈めるやり方だったのではないかと考えられます。水は低いところ低いところに流れていきます。その一番低いところに眼を置き世の中を見るとということは主イエスが生涯にわたって貫かれたことでした。
 主イエスがヨハネから受けられた洗礼は水による洗礼でしたが、そのあと聖霊が鳩のように下ってきて「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきたのでした。
 これにより、ヨハネがかねて言っていた「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」ということが実現したのでした。
 さて、私たちは洗礼を受けるとき水で額に十字架の形を記して洗礼を受けます。私たちは水で洗礼を受けたのでしょうか?聖霊による洗礼を受けたのでしょうか?祈祷書をお持ちの方は281ページをお開けください。
 洗礼を授けるとき司祭は水の聖別をし「父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と言って額に十字架の形を記します。つまり洗礼を受けられた皆さんは聖霊による洗礼を受けられたのです。

   

    洗礼の意味について考えますと、その一つは、洗礼を受ける人が聖霊によって回心し、新しく生まれ変わるという(ロマ6:3‐5)意味があります。
 聖霊が洗礼を受ける人の心に働き、主イエスの十字架と復活の信仰が与えられ,罪を悔改め、救われて神の子とされて再出発する時なのです。
 二つ目に、自分の信仰を形に表して人々の前で明らかにするという意味があります。
 神の子となった事実は表面的には持にないように見えますが,洗礼を受けることによって、今までの自分はキリストと共に十字架につけられて死に,新しく生まれ変わった者とされているのです。洗礼はキリストと共に生きると言うことを(ロマ6:6‐9)水と聖霊のバプテスマをもって公に表明する信仰の告白であると言うことができます。聖書の語っていることを受け入れてこれから生きるということを公に告白すると言う意味を持つのです。
 祈祷書の277ページを開けて振り返ってみましょう。
 私たちが聖霊による洗礼を受けると言うことは、イエス・キリストと同じ立場に立って考え、行動していくということです。
 洗礼を受けることによって、信仰者としてすでに完成しているということではありません。信仰者として生きることは私たちの一生の課題でもあるのです。
 1年が始まったばかりです。もう一度、聖霊による洗礼を受けた時の感激を思い出し、幼児洗礼を受けられた方は、堅信式を受けて初陪餐を受けたときの感激を思い出し、今年1年の信仰生活をスタートさせましょう。

 

「キリストの洗礼」1475年頃 
ベッロキオ、ダビンチ