降臨節前主日「収穫を分かち合う喜び」マタイ6:25-44 (2020年11月22日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

さて、稲刈りも終わり、実りの秋を迎え、本日はその収穫を感謝する礼拝をしています。鹿児島県の今年の稲の作況指数(平年の収量を100としたときの値)は94で、やや不良と言うことですが、今年も私たちに収穫の秋を迎えさせてくださった事を神に感謝したいと思います。

また、今日は子どもたちの成長を神に感謝し、皆さんと共に祝う、祝福式も共に捧げたいと思います。子どもの数は年々減り続けています。15歳未満の子どもの数は、1950年に2943万人(総人口の35.4%)だったのですが、2019年5月には1533万人(12.1%)となりました。45年連続で子どもの数が減少しています。

 

聖書では、収穫感謝は「仮(かり)庵(いお)の祭」として祝われていました。モーセに先導されてエジプトから脱出し、神が約束されたカナンの土地を目指したイスラエルの民が、エジプトの荒野で移動式の天幕に住みながら過ごした40年間を記念する祭でした(出23:16,34:22、レビ23:34~)。7日間続く盛大な祭りでした。秋の収穫を祝う祭でもありました。

 

現在の収穫感謝はアメリカでの出来事が起源とされています。1620年にメイフラワー号でヨーロッパから移住した人々が、見知らぬ土地で最初の作物を植えました。ところが、その年は寒波が到来し、ほとんど収穫がなく、多くの人が餓死しました。翌年の1621年には先住民からトウモロコシの栽培方法を教えてもらいました。その結果、たくさんの収穫があり、先住民と一緒に収穫感謝を祝うことが出来ました。このことが現在の収穫感謝祭の始まりだと言われています。

 

 さて今日の旧約聖書の日課では申命記が読まれました。申命記はイスラエルの民が、約束の地カナンに入る前に、神がモーセに語られた契約の書です。先ほども申し上げましたが、神はエジプトを脱出したイスラエルの民に、40年の間、荒野での試練をお与えになりました。今日の日課では、神がなぜこの様な試練をお与えになったのか、その理由が示されています。

 かつて、イスラエルの人々は、エジプトで、奴隷として抑圧されていました。神の導きにより、先導者として任命されたモーセを先頭にして、ようやくエジプトから脱出できました。ところが、荒野での生活が始まると、すぐに食べ物のことで不平不満を言い始めます。そこで、神はモーセとアロンに言われます。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」(出16:12)神はイスラエルの民に夕方には「うずら」を降らせ、朝には「マナ」を与えられたのです。この時のことを思い出して、神はモーセに言われるのです。「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

 食べ物も大切であるが、それと同じように大切なのは神の言葉であると神は言われるのです。荒野の40年の試練は、その事をイスラエルの人々に理解させる為だったのです。

詩篇65編では、豊かな実りと羊の群れに感謝し、その実りをもたらした地を潤すために、神が雨を降らしてくださった事に感謝する詩篇が読まれました。

これらのことが、旧約聖書では神とイスラエルの民との契約として記されていますが、イエスはイスラエルの民だけではなく、現在に生きる全ての国の人々と新しく約束をされたのでした。それが先ほど福音書でお読みした箇所です。

 

ここで主イエスは「空の鳥を見よ、野の花を見よ。」と言われ、神の言葉を信じないで、日々の生活にあくせくとしている私たちに「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むなと言われるのです。

「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。主イエスの御言葉を信じて、私たちが『神の国』と『神の義』を求めるとき、神様は全てのものを私達人類のために準備して下さる」と言われるのです。

 

では「神の国と神の義を求める」とはどういうことでしょうか?それはイエスが言われた最も重要な掟の中に明確に表わされています。

 イエス・キリストは律法の専門家から「掟の中で最も大切な掟は何か」と問われて「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37)と答えられます。

 これが「神の国と神の義を求める」ことの意味なのです。「神の国」では、隣人が互いに愛し合い、大切にし合う国なのです。そして、それこそが神の言われる正義すなわち「神の義」なのです。「神の国」と「神の義」を私たちが願い求めると言うことは、収穫を含めて衣食住すべてのことを分かち合うことも意味しています。

 

 私たちの周りには一見、食料があふれているように思えますが、食料には偏りがあるのです。国内にはホームレスにさせられた人たちがいます。九州教区でも小倉、福岡、久留米の教会では支援活動が続けられています。また、子どもたちへの支援として「こども食堂」も全国各地で行われています。全国子ども食堂支援センター理事長の湯淺誠さんは、「名もなき支援が、人を支える」と言われます。私たち鹿児島だけでなく長崎の教会でも始まりました。

 

私たちが「神の国」と「神の義」を願い求め、収穫を含めてすべてのことを分け合うことが出来たとき「神の国」は実現するのです。私たちも収穫を感謝すると共に、分かち合う喜びを知り、神の言われる本当の収穫の意味を考えたいと思います。

 

礼拝を続けましょう。