聖霊降臨後第4主日「神の国を実現するために種を蒔く」マルコ4:26-34 (2024年6月16日)
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
梅雨に入ったと気象庁の梅雨入り宣言がありました。恵みの雨の季節でもあります。
また今日は「父の日」でもあります。1909年にアメリカのソノラ・スマート・ドッドが、男手一つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われています。「母の日」同様、父親にも感謝したいと思います。
さて、私たちは折あるごとに「主の祈り」を唱えます。主の祈りは主イエスが私たちに教えて下さった大切な祈りです。マタイによる福音書6章6-13、ルカによる福音書11章2-4にその事が書かれています。主の祈りの中で「御国が来ますように。御心が天に行われますように、地にも行われますように。」と祈ります。今日はその「御国(神の国)」はどのような形で実現されるのかと言うことについてお話ししたいと思います。
旧約聖書の時代には「理想の国家」が実現しかかったことがあります。今日の旧約聖書日課、「エゼキエル書」でその事につて説明しましょう。
エゼキエルは預言者の一人でした。どんな人だったのでしょうか?歴史を遡ってみましょう。
サウル王に始まり、ダビデ王により確立され、ソロモン王の時代に大繁栄をとげたイスルラエル王国は、その後、後継者をめぐって紀元前926年(日本は弥生時代が始まる直前)に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。さらに紀元前722年には北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされます。そして、紀元前597年に南ユダ王国もバビロンに征服されて南ユダの指導者たちはバビロンに連れて行かれます。これを第1次捕囚と言います。その5年後にエゼキエルは預言者として召命を受けるのです。エゼキエルはエジプト、バビロン、アッシリアの偶像神に惹かれて堕落していく南ユダの人々に「神がこのままでは、南ユダは滅びると言っておられる」と預言をするのです。本日の日課では第1次捕囚(BC597)から11年目に神から託された預言の箇所が読まれました。「エジプトは繁栄をむさぼっているが、いずれ滅ぼされるであろう」と預言がなされるのです。私たちが神のことを忘れて繁栄を楽しんでいると、いずれその報いが来ると神は言われているのです。そのエゼキエルの預言の通り、紀元前587年ユダ王国は滅亡するのです。ソロモン王の時代に大繁栄をし、旧約聖書時代の「神の国」は実現したかに思われましたが、神の存在を忘れた人々の行いによって、あえなく崩れ去っていくのです。
今日の福音書では、主イエスは「神の国」を、植物の成長に譬えて語られました。「神の国」は植物のたね種が成長する様子に譬えられると言われます。「植物の種」は「神のみ言葉」、「主イエスの福音」を表しています。「地面」は「私たち」です。「種」が「地面」にまかれると、私たちが気づかない間に「種」はいつの間にか成長し「実」(神の国)を結びます。それと同じように、「神の国」はいつの間にか実現していると言われるのです。「種」がどのように成長するのか分からないのと同じように、「神の国」もどのように実現するのかはわかりません。「神の国」の実現は私たちの力の及ばない出来事なのです。しかし確実に豊かな実りに満ちた神の支配される国は実現するのです。
また、主イエスは「神の国」を「からし種」にも譬えられました。「からし種」は小さな種です。神学校の授業で実際に見せてもらったことがありますが、ごま粒よりももっと小さい種です。「からし種」(神の言葉、主イエスの福音)が「土」(私たち)に蒔かれると、ぐんぐん成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰は鳥が巣を作れるほどに安心できる場所になります。主イエスは「神の国」は、この「からし種」の成長と同じだと言われるのです。「神の国」は「からし種」の葉のように大きく広がって、私たちが平和で安全な住む場所になると言われるのです。
今日の使徒書では「コリントの信徒への手紙二」が読まれましたが、パウロは「コリントの信徒への手紙一」を書いた後で、コリントの人々から、この手紙をめぐって非難されます。その非難に応えるために書かれたのが第二の手紙です。
パウロは「わたしたちのち地じょう上の住みかであるまく幕や屋が滅びても、かみ神によってたて建もの物が備えられていることを、わたしたちはし知っています。ひと人の手でつく造られたものではないてん天にあるえい永えん遠の住みか(神の国)です。」とコリントの人々に語りかけます。パウロは「神の国」の存在を確信して、コリントの人々へ伝えたのです。
パウロはまた「この地上で重荷を負って生きていることが苦しいから、神の国を望んでいるのではない。罪のために死ぬはずの私たちが、聖霊によって与えられる永遠の命を得るために、神の国を求めるのです。」と語りかけます。
さらに「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」と「神の国」で生活することを強く希望するのです。
神が支配される「神の国」はパウロがあこがれるように素晴らしい国なのです。しかし、「神の国」は気がつかないうちにやってきます。パウロは「神の国」に入る前に起きるであろう最後の出来事に備えるために、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と願います。
私たちも「神の国」の到来に備えて、日々「主の祈り」を唱え、パウロに倣って「ひたすら主に喜ばれる者」なりましょう。
主イエスの十字架と復活を記念する聖餐式を続けましょう。