顕現後第2主日「水がめに水を入れなさい」ヨハネ2:1-11(2022年1月16日)

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 トンガの火山噴火による津波で昨夜来緊張しました。私たちの今年の年間聖句「全ての業(わざ)には時がある。神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書 3章 1節、11節)

は、神は私たちに色々な働きかけをされるけれど、その中には試練もあることを教えています。神のなさることを私たちは受け入れて行かねばならないのです。コロナウイルスのことも、津波のことも「なぜ」と問うのではなく、神の被造物としての私たちは受け入れて行かねばならないのです。

 

 さて今日の福音書は有名な「カナの婚礼」の話です。イエスがカナと言う村で婚礼に出席された時の話です。婚礼の途中でブドウ酒がなくなり、婚礼の終わり頃になって、イエスが普通の水を最高級のおいしいブドウ酒に変えられたというお話しです。ワインが好きな人にとっては有りがたい話です。しかしこの話は単なる奇跡の物語としてだけではなく、もっと深い意味がありそうです。

 

 「ヨハネによる福音書」はその冒頭から象徴的なことばが使われます。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」で始まりますが、この「言(ことば)」はイエス・キリストのことを指しています。「ヨハネによる福音書」では随所でこのように伏せ字が使われています。なぜ伏せ字が使われたのでしょうか?4つの福音書の中で、この「ヨハネによる福音書」は最も遅く、紀元90年頃に書かれたと言われています。この時代には、ユダヤ教の分派としてのキリスト教への弾圧が厳しくなってきた時代です。そのため、ユダヤ教と同じ教会の中で読む聖書として、直接的な言葉では書きづらかったためとも言われています。

 

 今日の聖書の箇所では、「婚礼」は終末における神の国での食卓を表わしています。6個の水がめの水はユダヤ教を表わしています。数字の「7」は「7日間で世界を創られた。」「7日目は神が創られた安息日である。」「許すのは7の70倍まで。」などで表わされるように、ユダヤの人々の間では完全であることを表わしています。「6」は不完全な数(かず)なのです。水がめが「6」つでは不完全なのです。もう一つ足りないのです。その足りないもう一つは何でしょか?

 

 主イエスの母マリアはブドウ酒がなくなったことに気がついて、主イエスに「ブドウ酒がなくなりました」と言われます。婚礼の最中にブドウ酒がなくなることは、招いた側にとっては大失態と言わなければなりません。

 主イエスは母マリアの願いに対して、「私の時はまだ来ていない」と言われます。「私の救いの時はまだ来ていない」と言う意味に考えることが出来ます。

 しかし、主イエスの母は召使い達に「この人の言うとおりにしてください」と主イエスの言葉にしたがうように言われるのです。主イエスは「6つの水がめを水で一杯にして、それから水がめの中の水をくみ出して、宴会の世話役の所に持って行きなさい」と言われます。召使い達はその言葉を信じ、言われたとおりにします。そうすると水は最高級のブドウ酒に変わっていたのです。ここで水は主イエスのみ言葉を意味しています。空の水がめが主イエスのみ言葉で満たされたとき救いの時が来るのです。このことを通して、私たちが救われるためには主イエスのみ言葉にしたがうことが大切である、ことを示しています。

 水が変化して出来た良いブドウ酒とは、主イエス・キリストご自身のことでもあり、神の国のことでもあるのです。

 不完全だった6個の水がめ(ユダヤ教)はイエス・キリストのみ言葉を受け入れることによって7つになり、完成するのです。

 本日の「イザヤ書」でも「詩96編」でも救い主の到来が預言され、その喜びが歌われています。使徒書ではパウロは神から与えられた霊の賜物について語っています。

 イエス・キリストが救い主として来られたことを喜び、神様から与えられた霊の賜物によって、イエス・キリストの福音を周りの人々に宣べ伝え、実践する生活をしていきたいものです。

 

 今年も始まったばかりです。今年1年間も、皆さんが父と子と聖霊なる神の御守りの中に、信仰生活を送ることが出来ますように祈っています。

 

「カナの婚礼」ヘラルト・ダヴィッド ( Gerard David )