ステンドグラスについて

                                     

                                              日本聖公会九州教区主教 飯田徳昭

 

 十六世紀の聖公会の成り立ち以来、聖公会の中にはカトリックの伝統を引く「高教会派」と、プロテスタントの伝統を引く「低教会派」または「福音派」が併存していて、福音派は画像や彫刻を偶像として極端に嫌って来た。九州教区は伝統的に後者に属している。従って、礼拝堂の中をシンボルで飾る習慣がなかった。

 1984年に私は、ACCAnglican Counsultative Council)(全聖公会中央協議会)への日本聖公会の代表に選ばれた。ACC3年に1回世界の各地で2週間の会議を開くのだが、その運営のための常置委員会の一員に選挙された。ACCの常置委員会は、世界の各地で毎年1週間開かれる。そのためにナイジェリアを振り出しに、スコットランド、英国、カナダ、ウェールズ、シンガポール、キプロス、米国、アイルランド、ボルネオ、南アフリカ等の各地を廻る機会が与えられた。どの国の教会もステンドグラスを含む象徴で美しく飾られているのを発見した。

 英国の田舎を廻っている時に、使われていない教会が沢山あることに気付いた。石造りでパイプオルガンのある大きな教会も、である(リダンダント《重複した》チャーチと言う)。昔は徒歩か馬車が交通機関だったから、歩ける距離に必ず礼拝堂があった。英国でも日本と同じく、産業構造の変化で、ロンドンを始めとする大都市に人口が集中して、田舎は人口が減って過疎になり、全部の礼拝堂を維持できなくなったのである。23の礼拝堂を整理して町の中心の礼拝堂に集中させる方策なのだが、自動車があるから信者の便利には差し支えないわけだ。

 ACC常置委員会のメンバーには、カンタベリー大主教を始め、英国聖公会の代表もいるので、使用しなくなった礼拝堂のステンドグラスを日本の教会に譲ってもらえないかと持ちかけたが、英国政府の文化財保護政策で、その手続きは非常に複雑で困難であることが判明した。

 半分諦め掛けていたところへ、以前に神戸教区で宣教師であったマイケル・メイズ司祭が、アイルランド聖公会の代表の一人として選ばれ、1990年ウェールズのカーディフでの会合からACCのメンバー(任期6年)に入ってきた。会話の中で、アイルランドでは過疎状態は英国本土よりもひどく、コーク教区のアーチディーコンとして自分は、リダンダント・チャーチの整理の責任を負わされており、大変だと言う。そこでステンドグラスの話を持ちかけてみると、今取り扱っている礼拝堂に存在するし、政府との手続きなど必要ない、日本の教会で役立てて貰えば、嬉しいことだとの返事。そこで交渉が始まった次第。

 日本の知人を通して、現地での梱包、輸送手続きを終えて、1993年の春に日本に到着したのだが、実はその間に、マイケル・メイズ師がアイルランドの北部のルモア・エルフィン・アーダー教区の主教に選出され、同師がコークから転宅する数日前に、ステンドグラスが港を出航するというきわどさであった。神様のなさる事の不思議を思わされた。

 梱包を解いてみると、相当痛んでいる上に、グラスが製作された百年前の技術では、一片一片を繋ぐ鉛が柔らかいので、グラスの重量を支えるために、後ろの数ヵ所に鉄の横棒を渡して、鉛の中に埋め込んだ鈎をその横棒に引掛ける工法が取られていた事が判明した。そのために全部を何百という細片に分解して、現代の硬質鉛で繋ぎ直させた(横棒は不要となった)。大変な作業で修繕費は二百万円を超えた。

 このステンドグラスは、南アイルランドのコーク教区のマロー・ユニオン教会を飾っていたもので、メイズ師からの手紙で「復活」の図柄であることを知らせてきていた。左下偶のパネルが欠損していたが、福岡のステンドグラス工房の原氏によって、ドイツから輸入した材料を使って修復された。よく見るとガラスの色合いが違うことが判るが、原型を損ねていない立派な技術である。